対立の選択の自由がないのってむしろディベートのメリットじゃね?

http://d.hatena.ne.jp/terracao/20080731/1217446082
私は理屈っぽいと評される左脳理屈人間(いまでは自覚して過剰にならないように努力はしている)なのだけど、例によってディベートとか大好きです。大学行ってないしディベート大会とかも出たことがないけど、中学高校の勉強会なんかで偶然ディベートをやる機会に恵まれると喜び勇んで相手をギタギタにしていた。もっと拍手を!
ディベートは世の中が時計の針のように理路整然・合理的に動いていると思っているお子様に現実の非常さを突きつけるのにとても良いと思う。
時計が理路整然と動くのは電池が入ってるからだし、世の中がなんとか動いているのは不条理だらけの社会だけども現実を認識してがんばっている大人がいるからである。
例えばゴミ回収の仕事をしている人がいる。あれが実は給料いいとか、同和利権であるとか、同和利権が在日に乗っ取られているとか、そういうのはとりあえず置いておく。やってる本人達は同じ給料なら臭くなくて汚れなくて楽な仕事のほうがいいにきまっている。それでもゴミ回収の仕事をやっている人はその仕事に就かざるを得ない理由がなんかしらあったんだろう。念押しするが職業に貴賎はない。
社会というのは不条理なので、あらゆるやりたくないポジションに人が就かなくてはならない。これはディベートで対立に至る過程がないのと似ている。もっとも、現実社会の場合は本当にポジションを変えたい場合はいくらでも方法がある。つまり、わざわざ「ポジション選択」をディベートに盛り込む価値は少ない。
やりたくないポジションについたらどうするべきか? やりたくないポジションをやぶさかでないポジションにすればいい。それには二通りあって、一つ目は決裁権のある人間がやるか、提案によって決裁権のある人間を動かすかである。ディベート能力は後者の際に威力を発揮する。
ディベートは極端に言えば、拍手が相手より大きければよい。しかし大事なのはそれそのものではなく、そこに至る過程と、その応用にある。
与えられるポジションは半ばお仕着せである。必ずしも、ディベートを行う個人の本来のポジションと一致しない場合がある。それでも、与えられたポジションに立って論理的な思考ができるか? どのような切り口をもってすれば聴衆に支持されるか? 戦術級コミュニケーションスキルを総動員しなければならない。
実戦である社会でこのような「望まれない対立」が起きた場合、最終的に両陣営、つまり組織全体に利益をもたらすことが目標となる。そのためには討論相手とポジション的には対立しつつも心理的に対立することなく、むしろ協力して相互利益をめざすこととなる。つまり、ディベートの目指すものは与えられたポジションの勝利ではなく、お互いの勝利である。そのためには、前述した「お仕着せで与えられたポジションの立場に立って利害計算を行う」というスキルは非常に大事である。なぜなら、相互勝利のためには、自らのポジションだけでなく、相手のポジションの利害計算も同時に行わなければいけないからだ。

あとでもうちょっとだけかくんじゃ