泣きながらまずいと言う不幸

仕事帰りに、2日分(には遠く及ばないもののいくらか)の食料を買い込むためにスーパーに行った。
閉店もまぎわだったので総菜コーナーにはほとんどなにもなかったのだが、いつも通り売れ残っている(がまだ値下げシールは貼られていなかった)サラダ巻きを籠にいれようとして、ふと2〜3人前の巨大なパック寿司が1つ残っているのが目にとまった。
なぜ、スーパーのパック寿司というのはあんなにもまずくて、あんなにまずいのがわかっているのについ時たま買ってしまうのだろう?
とにもかくにも、(通常のレジ袋だと中身が思いっきり寄ってしまうのでわざわざ)専用の袋に入れられた1000円もするそのパック寿司は、きっと本来は恋人同士のささやかな夕食とか、がんばった主婦とかが主人の帰りを待つために献げられるものなんだろうなあこんな独身貴族が買って行ってごめんよと思いつつも食ってみたらすげー不味かった。なんで人間は学習しないんだろう。

スーパーのパック寿司は、俺にとってただのまずい寿司ではない。俺の寿司の原点といっていい。ほんとにそうだっけ? 記憶があいまいでよくわからない。 しかし間違いないのは、俺は小学生のころからときたまおかんがスーパーで買って帰ってくるパック寿司に目を輝かせていたということである。ただ、それが旨かったのか不味かったのかという記憶はあんまりない。そもそも当時、自分が寿司を食うというとたまに近所の寿司屋につれていってもらうか、もしくは親が買ってきた折り詰めかパック寿司であり、それがどこのどういった氏素性の寿司かということはぜんぜんわからなかったはずだ。だから本当に正真正銘のスーパーの寿司から、茶月や、もしくは「ふかせ」の穴子寿司ということもあった。自分がどんな寿司を食っていて、それがどんな味だったかはもうほとんど覚えていない。ただし、小学校高学年とか、中学とか、そのころに親が買ってきたパック寿司を食ってまずいといい、残ったものをおかんに食べてもらった記憶というのはけっこうある。今の俺がスーパーのパック寿司に求めているのはそういった郷愁なのかもしれない。

タイトルにもあるように、元々そういう話に持って行くつもりはなくて、俺が書きたかったのは舌が肥えていくと旨い物がどう旨いかがわかるのはいいとして、なんで不味いものが食えなくなるんだろう? ということだった。まずいものをまずいまずいとへらへら言いふらしているうちは何の心配もない。今ではまずいパック寿司を食うと「こんな不味いのに買ってごめんよ、でも残したら失礼だよね、ごめんねごめんね不味いって思っちゃって、がんばって全部食うよ」と不味い寿司に対して懺悔するようになる。せっかく魚と米として生まれてきたのにこんなに不味く加工される寿司が哀れでならない。それも、それでも旨いと言いながらぱくつく味のわからない人間に食われればいいものの、わざわざ不味いと言われながら俺に食われるのが哀れでならない。申し訳なくてどうしようもない。ただ罪悪感しか残らない。もう泣くしかない。だから、泣きながら不味いものを食うというのは全世界の不幸なのである。

俺が以前先輩の部屋に居候してた時に買ってきたパック寿司があまりに不味いというので残していたら、遊びに来ていた真性ニートの「ふぁっと」がいらないならくれと持って行き、うまそうに食っていたことがあった。俺はそれを見てそのときはこいつは貧しい舌だなあと心の中でせせら笑っていたのだけど、今思うと単純にそのとき奴は幸せで、俺は不幸だっただけなのだ。もっともこれは単純ではない。スーパーのパック寿司は高い。回転寿司のほうが安い。そして、大阪で手に入るどんなスーパーのパック寿司よりもおそらくくら寿司のほうがよっぽど旨いだろう。つまりスーパーのパック寿司は回転寿司よりも高いくせに不味いのだ。大変にC/Pは悪い。だから「奴は安い寿司で満足する」ということではなくて、「奴は遍在する寿司で満足する」ということである。奴の世界にはどこにでも幸せがあふれている。俺のフィルタを通すとそれらすべてが不幸に見える。俺は努力して不幸に邁進しているのか?

とか考えていたのに結論が違うところに析出してしまったのでぎゃふん