「友達やってて損はないよ」の嫌悪感

友達Aと友達Bを引き合わせようと思った。
Aは甲という事柄に対して比類ないが乙についてはてんで素人、逆にBは甲のことは全然わからないが乙のことなら熟練、という正反対の特技の持ち主である。ちなみに俺はどちらも中途半端な器用貧乏だ。そもそも今回の発端はその俺の器用貧乏に起因する。
Aが乙についてちょっとだけ知ってる俺を頼ってきたので、俺はそれについてとても詳しいBに頼ろうと思った。しかし頼られるほうのBにはただ働きであり、面白くないだろう。だから俺はBにAを「Aは甲にすげー詳しいんだぜ! 友達やって損ないよ!」という触れ込みで紹介することをシミュレートした。
その瞬間自分に対して猛烈な嫌悪感を覚えた。つまり俺は「お前ら相互利用しろ」とけしかけようとしたのである。
「大人になったら本当の友達はできない、だから親友は学生のうちに作っておけ」という文句がある。
これは本当かもしれないな、と追って思った。
新しく友達になる奴に対して「こいつはどんな技能・知識がある」みたいな期待ばっかりしている。つまらない。もちろん、全てがそうじゃない。「俺と遊んでくれるのがこいつの最大の価値だ」という友達も多い。大いに結構。しかし大人になって前者のような友達ができるようになった。こういう友達とは普段連絡を取り合うことはない。そいつの能力が必要になったときに初めて召喚される。これは寂しいことだ。でも全員と普段から仲良くするには24時間365日は短すぎる。
友達だから助けあうんじゃないか、その正論はまじで正しい。
それでも、オフで名刺を交換していると、もはやその場は仕事の延長としか感じられなくなったりすることがある。俺なんかもうずっとフリーランスで、むしろ自分から進んでそういうことをしてきたきらいがあるので余計だ。相手が仕事の名刺を出した時の俺の絶望、というものを、数ヶ月数年の遅延をもって今初めて感じた。その時は不感症だったので何も感じなかっか、もしくは俺の思考回路が逐次発火して最後感情にたどり着くまでにそれほどの時間を要した。
フリーランスにとって、いや、フリーランスでなくとも社会人にとって「友達」の数は死活問題である。友達はセーフティネットである。それは間違いない。友達が多いほどもしもの時の期待値は高いに違いない。しかし、セーフティネットを広げるための友達作りでは本末転倒である。そんな気持ちで友達を作りたくないし、そんな気持ちで友達に友達を紹介したくもない。
友達って何人が適正なのかな。自分の社交能力を数値化する方法と、その行動力で仲良くしていける友達の最大の人数を計算するウェブサービスを誰か作ってくれ。
「友達」および自分の中の「友達」感と今後どう付き合っていくべきかまったくわからない。